☆先染めの紬と後染めの白生地は共に階級制度によって発展した⁈ -着物雑学ー

今回は、ブログ「日本全国どこへ行っても名産の染織品があるんです。」の続編です。

なぜ全国に名産品があるのでしょう。またなぜ先染めの紬と後染めの白生地があるのでしょう。今回はそこを紐解いて参ります。そもそも紬とは何でしょう?まずはその説明から始めましょう。

 

紬とは、農民が田畑の仕事が出来ない雨期や冬場などに室内で出来る養蚕をして、繭として売れない屑繭で、自分達が着るために織った物です。

 

江戸時代まででは庶民の着る物は麻や木綿などの植物繊維(※木綿は江戸時代以降に大発展しました。)と、捨てられる屑繭が主流。それぞれの地方で原材料になる物も違えば織り方も違うので、麻や木綿にも様々な名産品が生まれました。ですから、○○紬と名前がついていてもそれぞれ全く違う物なんです。紬とは、繭から糸を紡ぐ(つむぐ)から来ているのですが、繭から引き出すだけで紡がない(撚り❨ねじり❩をかけない)物まで○○紬と名付けられているのですから、ややこしい事この上ないです(笑)つまりそれくらい一つ一つが違う作りなんですね。

 

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一方、美しい白生地はどうして生まれたのでしょう。まだ閉鎖的で電力とか金属とか無い昔にこんな制度の高い染織品があったなんて、ちょっと信じられませんよね。その鍵は今も上質な絹の白生地のシェアを誇る丹後ちりめんにあるのかも。その理由をお話しましょう。丹後ちりめんが出来るまでは、絹織物は西陣が主流でした。

約300年前、米どころ丹後は大寒波が続き、それまで農業が盛んだった村は大飢饉に襲われました。その時村を救うために西陣で修行した絹屋佐平次がまだ「田舎ちりめん」と言われて売れなかった丹後ちりめんを作り上げて大ヒット、村は機業が盛んになって行きます。それに伴って原料の繭を納める全国の養蚕業もどんどん盛んになりました。

 

 

白生地にもたくさんストーリーがあるんですね。

 

しかし、納められるのは機械の繰糸(そうし)にかけられる、形が良くて白い良質の繭だけ。屑繭は正規の商品として納められないので省かなければなりません。養蚕が盛んになると屑繭もたくさん出ます。捨てるのは勿体ない、何かに使えないかと各地方で知恵を絞り、発展したのが紬です。農民たち自身が着る物に使われたのでオシャレというより、丈夫だったり、洗えたり、機能的で合理的な所が特徴的です。(屑繭からの織物は足利銘仙など、紬以外にもあります)

 

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屑繭には例えば次のような種類があります。

 

のび繭…汚染したり変形した物

玉繭…二頭の蚕が一つの繭を作った物

出がら繭…蚕が蛾になって出てしまった物

 

これらは繭から直接糸を引きにくいのでこのまま広げて真綿にして、そのまま布団綿に加工する物もたくさんあります。

糸を引けないわけではありませんが、途中で切れたりもつれたりしてフシや混糸が入りやすく、スルスルスーッと一本の糸を引くのは困難なので、白生地整経のための経糸緯糸には向きません。そこで、各家庭で手機を使って織って、生地にしたわけです。

 

良質の繭は後染めの白生地になり、美しい風合いの「絹―Silk―」として貴族や士族の着る物へと、

屑繭は丈夫で保温保湿に優れた紬になり、庶民の着る物へと生まれ変わり、それぞれの分野で成長・発展してきたのです。

まさにSDGsですね。

それで振袖などの後染めも、大島紬や結城紬などの先染めも、どちらも素晴らしい技術と品質なのですね。(ブログ 先染め(先練り)・後染め(後練り)とは[先染め・後染め前編])どちらも多くの人間国宝や重要無形文化財を生み出しています。

 

紬は、その土地に生息する木や花や果実などの植物や、海、川、雪、砂、土、そして気候と言った風土を利用して染められ、柄付けされてきたので、各地方にそれぞれの様々な名産品が発展しました。

一方、白生地の友禅染めは、上流階級に献上するため、工業・商業として発展して行くので、平安時代から都の京都、江戸時代から都の東京、百万石で有名な石川県など、限られた地域とその関連地域で発展してきたのですね。

 

 

蚕の餌になる桑さえあれば、養蚕は可能ですから、山あいなど自然に囲まれた地方で発展した紬は、例えば、大島紬(鹿児島)、結城紬(茨城)、牛首紬(石川)、塩沢紬(新潟)、久米島紬(沖縄)などいろいろ有名ですが、これらは全部特徴や風合い、製作工程が違うんですよ。大島紬なんかは独特です。比べてみるとおもしろいです。

 

またの機会に、一つ一つ紹介致しますね。来週は結城、牛首、塩沢の違いをわかりやすく解説いたします。お楽しみに。