☆友禅染めを生み出した宮崎友禅と発展させた廣瀬治助、そして友禅神社とは ―着物雑学―
着物のお手入れをしている私達が働く京都は、古くからの歴史の面影が現在も多く残されている事で有名です。実はその中には、「絹(養蚕)」「染織」にまつわる寺社が多くあるのも特徴ではないでしょうか。私達は、お客様の思いの詰まったお着物をお手入れさせて頂いたり、時には甦らせたりするのが生業ですから、着物にまつわる神様に御参拝させて頂く事もよくあります。
主に、蚕ノ社(かいこのやしろ)と言われる「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)」や、今宮神社の中にある「織姫神社」、秦河勝が建立した太秦の「広隆寺」などが有名です。他にも、わら天神(敷地神社)、平野神社、植物園内にある半木(なからぎ)神社など、うっかり通り過ぎそうな所にも着物にまつわる神様がおられるので、チェックは怠りません(笑)。
そんな中でも、現在の友禅染めの礎を築いた、実在した二人の人物がおられる寺社もあるんです。
宮崎友禅と、廣瀬治助がその人物です。
宮崎友禅斎は江戸時代、廣瀬治助翁は明治時代に活躍した人物で、現在の洋服のプリント捺染の起源とも言われている偉人です。二人とも、染色の業界の方にはよく知られている人物です。学校で教わった方もおられますよね。私もその一人です。
── 宮崎友禅斎(1654〜1736) ──
友禅染めの名の由来にもなっている宮崎友禅は、石川県出身で、加賀染めを学んだ後、京都知恩院前に移り住み、扇絵師として人気を博し、着物の雛形(デザイン画)を描くようになりました。その絵柄や図案が良くて人気が出てその着物を作ったのです。それのどこがすごいの?と思われるでしょうが、当時はまだ化学染料すら無い時代です。植物などを使って思うような色を出せたとしても、緑、赤、青、と様々な色を使って生地に絵を描くと、たちまち色が滲んで混ざり合いぐちゃぐちゃになってしまいます。また、細かい模様は筆で描き、広い無地の所は刷毛でくまなく塗らねばなりません。そこで宮崎友禅は、染料(顔料)も改良し、もち米を筒に入れて線(糸目)で絵を描き、色が混ざらないよう且つ定着するよう熱して蒸しました。そして、模様の所をもち米で伏せ(防染)、地染めをしたのです。もち米は洗い落とせます(水洗)。
これは今の友禅染めのやり方そのままですが(ブログ ♦友禅は手作りされているってご存知ですか? ―着物コラム―参照)、この時に宮崎友禅によって発明されたのです。それまでにも防染にはろうけつ染めがあり、絞り染めなどもありましたが、友禅染めは生地の柔らかい風合いも生かせます。当時は柄を描くには、地色を染めてから刺繍や金箔、辻ヶ花もありましたが、奢侈禁止令が発令され、それらは使えませんでした。ですから直接描く友禅染めは大ヒットしたのです。技法には関与してないなど諸説はあるようですが、宮崎友禅ブランドが大ヒットしたのは間違いないようです。いつの時代も不自由や制限の中から新しい物が生まれるんですね。
そんな宮崎友禅所縁の庭園が、居を構えていた知恩院前にあります。生誕300年の時に造られたそうです。
── 廣瀬治助翁(1822〜1890) ──
友禅染めは、絹だけでなく木綿にも染められたそうですが、製作に大変手間がかかり高価でしたので、ごく一部の限られた人しか着られませんでした。それを、工場を作って大量生産する方法を編み出したのが、廣瀬治助です。現代の型染め友禅の基礎を築いた方です。明治初期、イギリスで発明された化学染料が輸入され、色が出しやすくなったものの、染色技術がまだ未発達のため、上手く扱えなかったようです。やがて京都の堀川新三郎が化学染料と糊をまぜた「写し糊(うつしのり•色糊)」を開発し、モスリン(ウール)に染める事に成功しました。廣瀬治助は堀川新三郎から学び、縮緬に写し糊と型紙を何枚も使って型染めをする染色方法を確立させ、大量生産を可能にして、京友禅産業を発展させたそうです。
廣瀬治助は、堀川三条東の「越後神社」に祀られています。この神社は元々、廣瀬治助の型染めの工場があった所にあるからです。室町時代の武将の杉若越後守から、町内の名も越後町といい、幕末には青山家の広大なお屋敷があったそうです。その庭には大きな池があり、そこにあった神社がずっと引き継がれたものなんですね。廣瀬治助はその屋敷跡に工場を造り大量生産を行いました。今ではビルの谷間の、とてもわかりにくい場所にあるのですが、地域の方々にも大事にされ、染色関係者からは「友禅神社」と呼ばれているそうです。
京都は、時代と共に景観もどんどん変わりましたが、こうして今も着物と深い所で繋がっているように思います。私達は、染色補正や、ブログやYou Tubeを生かして、いろんな方面から着物を後世に伝え、残して行ければ…と、願っています。