♢日本書紀から伝わる呉服発祥の織姫伝説を訪ねてみました―着物生活―
ブログ「丹後ちりめんにはドラマのように感動的なヒストリーがあるのです・前編」で、絹織物の技術がいつ、どうやって丹後に伝わったかも少しお話しました。その際に、呉服の発祥にもちょっとだけ触れましたが、今回はその言い伝えを追ってみました。
皆様は日本の呉服の発祥の物語をご存知でしょうか?有名な伝説で、福岡県、兵庫県西宮市、大阪府池田市などがその舞台に当たります。
――― ストーリー ―――
日本書紀の記述に一部伝承を併せてお話致します。応神天皇37年(306年)に、衣服を作る技術を得るために阿知使主(あちのおみ)と子である都加使主(つかのおみ)(二人は渡来人だったようです)が、縫工女(きぬぬいめ)を求めて呉の国へ派遣されました。それまでは麻や桑の皮、絹、などの織物はあっても、あまり良い衣服ではなかったようです。
しかし道がわからなかったため一度高句麗に渡り、久禮波(くれは)久禮志(くれし)の二人の道案内人を得て呉国へ。(「呉」を「くれ」とも読むのは、二人の功績をわすれないためだとも。)
そして呉国王から、兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)呉織(くれはとり)穴織(あなはとり。漢織と書き、あやはとり、とも言う)の四人の工女を賜り、4年後の41年(310年)に帰国しました。応神天皇は既に崩御され、仁徳天皇に代わられていました。途中、筑紫(福岡県)に着くと宗像大神が工女を乞われたので、兄媛を差し出しました。宗像大社には、織幡神社や、縫殿神社が今もあります。
あとの三人の工女は、やがて津の国(大阪北中部と兵庫南東部)の武庫(現西宮)に着いたそうです。
豊嶋郡(池田市)の伝承では、呉織、穴織の二人はその後、武庫川から猪名川を上り唐船ヶ渕(現池田町新町)に上陸したとされているそうです。
つまり、染色や織物、裁縫に長けた女性のプロを呉の国から四人連れてきて教わったり広めたりして、呉織、綾、錦、羅などが作られた。官中に縫殿寮を設け縫部司、縫女部を設けた。呉織、穴織の二人は百余歳まで室にこもって裁縫に従事し、死後、祀られた。という伝承です。
しかし、日本書紀には四人を連れ帰るまでの記述はありますが、技術を伝えたとまでは書かれていないそうで、なぜこの伝承が出来たかは不明だそうですが、江戸時代にはすでにあったそうです。また、似た話は他の年度にもあり、呉織・穴織は個人名ではなく職名かも?とも言われているようです。
――― 現地ルポ ―――
京都から福岡は遠くて行けませんでしたが、西宮と池田なら周れるので、所縁の地を訪ねてみました。技術向上の御利益にもあやかれそうです。
西宮の史跡染殿池は、住宅地の中の松原天満宮の前にありました。
小さい祠があり、御祭神の中には「織姫大明神」の名もありましたし、その水で染色をしたと伝わる染殿池もありました。
現在はとても小さな史跡ですが、古代にはきっと大きな池があり、松が立ち並んでいたのでしょう。QRコードを拾えば織姫伝説が観られるようにもなっていました。又、西宮には呉羽町、綾羽町という地名もあるそうです。
池田市はもっと規模が大きくて、呉織・穴織伝説があちこちにあり、町に浸透していました。
呉織が祀られている呉服(くれは)神社は、駅のすぐ近くにありました。現在も染色や服飾、縫製関係の方が多く訪れ、地域の方々からも親しまれています。
住宅街にある染殿井も見つけましたよ。
町の為那都比古神社(稲名津彦神社)では、お正月前の掃除や準備が行われていました。為那都比古とは、呉の国に出向いた阿知使主ではないかと言われています。
伊居太(いけだ)神社には、穴織が祀られています。こちらは街から少し離れた山の中腹にありました。
他にも、織姫達を乗せた船が着いたとされる「唐船ヶ渕」、
夜遅くまで機を織る姫に七つの星が降りてきて明るく照らした「星の宮」、
染めた糸や布を干した「絹掛けの松」など、周りきれませんでしたが、織姫伝説にまつわる聖地が多くて楽しかったです。
―――ちなみにですが
池田市のとなりの豊中市には、服部天神宮という足の神様で有名な大きな神社がありますが、「服部」も元々は、「機(服)織部」(はたおりべ)という、古代の大和王権で衣服を織る担当機関から来てるんですよ。「服織部」から織の字が消えて、はたおりからはっとりになったのですね。
呉織・穴織の二人から、周りの広い地域に派生していったのかも知れませんね。
しかし…
伝承には弟媛が抜け落ちているのが気になります。兄媛弟媛と言うには、二人は姉妹だったのでしょうか。兄媛だけが連れて行かれて、弟媛は薄命だったのでしょうか。単なる言い伝えの伝説に過ぎないのならどうにでもなるのに、なぜ誰もここに触れて来なかったのでしょうか…。