♦西陣の栄華の象徴゛千両ヶ辻゛で見つけた金の糸とは ―着物コラム―
前回はしみぬき出来る帯と出来ない帯がある、というテーマでしたが今回は、そこにも登場した西陣織の「西陣」がテーマです。私達が働く会社は現在、西陣のすぐ近くに位置しています。西陣と言えば地元京都でも昔から派手なイメージを持たれていますが、現在は普通の街で、お金が飛び交うような感じも華やかな感じも見当たりません。が、よく観察してみると古い大きな建物や近くにはかつて一番栄えた花街の上七軒があるし、五番町夕霧楼など有名な小説や映画の舞台になった歓楽街の片鱗も残っています。
西陣とは、東は堀川通、西は千本通、南は中立売通、北は船岡山で囲まれた一角の事で、それほど広いエリアではありません。が、その中央辺りの大宮今出川付近を「千両ヶ辻」と呼びます。江戸時代中期頃、生糸や織物の商業で「一日千両のお金が動く」ことからその名がつきました。千両とは、現在の一億三千万円だそうですから、想像以上に栄えていたようです。
西陣をそこまで隆盛させたのはもちろん西陣織です。織りの技法の種類も多く、綴(つづれ)、経錦(たてにしき)、緯錦(ぬれにしき)、緞子(どんす)、朱珍(しゅちん)、紹巴(しょうは)、風通(ふうつう)、捩り織(もじりおり)、本しぼ織、ビロード、絣織(かすりおり)、紬、など、12種以上と豊富です。
歴史はわかりやすく箇条書きにしてみましょう。
- 五~六世紀、渡来豪族で職人集団の秦氏から織り物の技術が伝わる
- 平安時代、都が京都に置かれ宮廷内て高級織物が織られていた(❊スタートが高級織物なんですね)
- 鎌倉時代、織物職人達が宮廷から独立
- 応仁の乱(1467〜77)、西軍の山名宗全の邸宅がある付近に陣が置かれたので、そこが「西陣」と呼ばれた
- その間、織り物職人達は大阪の堺に避難していたが、やがて戻ってきて復活させた(❉ここから西陣織が始まるんですね)
- 安土桃山時代、豊臣秀吉に厚く庇護される(✼秀吉の邸宅の聚楽第跡が西陣にはあちこちにあります)
- 江戸時代中期、最盛期を迎え、千両ヶ辻と呼ばれる
- 江戸時代後期、二度の大火に見舞われ衰退する
- 明治時代、海外技術を取り入れ再び発展する
現代では、時代の変化と共にかつての賑わいは見られなくなりましたが、地元では西陣を盛り上げようと様々な取り組みがされています。平成14年からは毎年、「千両ヶ辻」と題した西陣伝統文化祭が開催される他、いろんなイベントが催されているようです。イベント千両ヶ辻は小さなエリアで行われていますが、実際に行って昔の商家や町家を見学させて頂きました。
中でも“箔屋野口”さんは、明治10年、金糸商として室町で創業されました。明治22年建築の町家は弁柄の糸屋格子や、庭や奥座敷など、当時のままの貴重な家屋です。
こちらで帯などに使われる本物の金糸に出会いました。ここで金糸について簡単に解説致しましょう。
西陣織と言えば一番に金糸銀糸のきらびやかな織物を思い浮かべます。前回も「金糸の剥がれ」で登場しましたが、そもそも金糸ってどうやって作られてるかご存知ですか?
金糸には「撚り(より)金糸」と「平(ひら)金糸」があります。
○ 撚り金糸
和紙に漆を使って薄く伸ばした金箔を貼り、それを髪の毛のように(0.3ミリ)細く裁断し、糸と撚り合わせる。
撚り方も「丸撚り」「蛇腹撚り」「たすき撚り」「羽衣撚り」などがあり、太さや撚り方でいろんな光沢や美しい表情が表現されています。ですから摩擦などで剥がれる事があるんですね。
○ 平金糸
糸と撚り合わせず、金箔を貼った和紙を平たく裁断し、そのまま緯糸として織り込む。ですから紙が織り込まれている事になり、この場合も剥がれる事はあるでしょう。 又、平金糸は平箔、引き箔とも言い、近年ではラッカーやフィルムなど様々な材料でいろんな柄が作られています。引き箔も「焼箔」「砂子箔・切箔」「もみ箔」「貼り絵箔」「絵箔」など、多数の手法があります。
また、漆を使った漆糸や漆箔もあります。
どちらも近年では、金やプラチナなどの高級な物と、大量生産のためポリエステルにアルミニウムを蒸着させた物も多くあり、又、その上から染料や顔料で着色して金色を表現しているのも多くあります。
補正士の視点で見ますと、どれも薬品の使える物ではなく、水すら使えない物も多いので、前回お話致しましたように、他の方法で補正するのがベストなんですね。(ブログ「帯の変色は直る?しみぬき出来る帯・出来ない帯」参照)
箔屋野口さんでは、金糸業から引き箔もされていましたが、現在では箔を使った箔画や紺碧画といったアート作品を作られていて、見学(要予約)に行くと詳しくご説明して下さいます。
西陣はこうして今もいろんな発見があり、古くからの情景も残り、まさしく京都を象徴するような街でした。またぜひ訪ねてみたいと思います。